嘉永七年(1954年)、ペリーが再度日本に来航したとき彼らは驚くべきものを見た。前年にはじめて来航した時には形もなかったもの、『台場』が現在の東京湾に建設されていたからである。この短期間で台場を建設したのは江川太郎左衛門英竜。幕末期に大活躍した幕閣の一人である。彼は天保期から日本の近代化を主張し続け最新の西洋砲術を学んだり、西洋の造船技術を学んだり日本の発展に尽くした。
そんな彼が心血注いで取り組んだ一大事業こそが反射炉建設であった。これまでの日本は質の良い鉄を自国で生産する能力がなく、武器の質は欧米のそれをはるかに下回っていた。質の良い鉄を生産し、欧米に追い付くためには、それを生産できるもの、反射炉が不可欠だったのである。防衛上の観点から敢えて山奥に建設されたこの反射炉は三年の月日を得てようやく完成を見たが、その時にすでに彼はこの世からいなくなっていた。台場の建設、西洋砲術の研究、そして他国との折衝などの激務の末に過労死してしまったのであった。享年五十四。幕府、いや日本のために尽くした人物であった。
今回の反射炉取材で一番感じたのは彼の地元での人気の高さである。「江川様が建てたものだから残してあげたい。」という理由で地元住民が取り壊し反対運動を起こしたり、その後も保全が地元の人によって行われたりしている、のは地元民に慕われているからにほかあるまい。時代に限らず民を顧みない為政者は数多く、顧みる為政者であったとしても、例えばその住居を大切に保存しようなどということになる例は数少ない。取材中、語り手の口調は彼を慕っている、いや彼に誇りを持っているように感じた。歴史上有名であることよりもよりも大切なことがある、ということを教えられた取材であった。
Comentarii