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志士仁人 第5回 出村和彦先生〈完全版〉

cupress19281
22 時間前
読了時間: 9分

第5回となる今回は文学部哲学専攻教授であり、古代中世西洋哲学、特にアウグスティヌスの人間論を研究されている出村和彦先生にお話を伺った。本稿は1293号掲載の「志士仁人」の完全版となる。


文学部 哲学専攻教授 出村和彦先生
文学部 哲学専攻教授 出村和彦先生

 ―哲学に関心を持ったきっかけを教えてください。



 中学3年生の時、デカルトという哲学者がすごいなと思ったんですよ。


 デカルトが生きた中世末期・近世初期は、ドイツやフランスでは宗教戦争が吹き荒れていた時代でした。色々な考えのなかで人々がいがみあったり戦いあったりしているなかで、デカルトという人は「理性」という人間の共通なものに基づいて、何か根本的な合意、根本的な真理に至ろうとしていました。そういう姿は新鮮に映ったんですね。


 私が中高一貫校に入学したのは1969年のことでした。学生運動が盛んだった1970年代という時代にあって、高校生たちは政治運動に加わったりしていたのですが、生意気にも中学生の私は「やっぱりしっかりものを考えることが大切だ」「行動する前に考えよ」と思っていたんですね。


人間のことを考えたうえで、何か共通なもの(たとえば真理)を見出していき分かり合っていくということが哲学によって可能になるのかなと思って、デカルトや、それに続くスピノザなどの哲学者に関心を持ち始めました。そうは言っても近世ヨーロッパでのことですから、理性といってもそれは科学的な理性のことになってしまい、いかにもヨーロッパ色の強いものになってしまいます。私は日本の古典も大好きだったものですから、日本に根付いたものについても考えたいな、どこで分かり合えるのかなというようなことを模索していました。



 ―現在の専門であるアウグスティヌス研究にいたるまでの経緯を教えてください。



 大学に入ってからは、ヨーロッパといってもそのおおもとがあるだろうと考えて、古代ギリシアの勉強をしました。古代ギリシアでも色々な意見の違いでポリスどうしが戦っていて、そんななかで真理というものは人々の中で共通なものになるのだろうか、などということに関心を持ちました。


 その勉強の基本にはギリシア語やラテン語、西洋古典があると考え、大学では西洋古典に基づいた哲学史、特にプラトン研究をやっていました。善や幸福、政治の問題が生々しくあらわれ、ニーチェの超人思想に影響を与えたことでも有名な、プラトンの『ゴルギアス』という作品の研究です。


 その後はプラトン研究をもう一歩深くやりたいと思い、プラトン研究の専門家の加藤信朗先生のいらっしゃる大学院に移り、そこで研究を続け、修士課程まではプラトン研究を継続していました。


 しかし、プラトンはプラトンで素晴らしいし、今でも学ぶところはあると思うのですが、本当に人間が生きられるものを与えてくれるものは何かなと考えた時に、キリスト教の源流というところにたどり着いたんですね。人間のよい面もわるい面も見つめていって、人間を支えてくれる思想であると感じました。


初期キリスト教時代の思想家のひとりアウグスティヌスは、栄達をとげいい気になったかと思いきや、自分の都合で長年連れ添った伴侶を離縁しなければならなくなり、心がズタズタになるという体験をしました。しかし彼は、そのような自分でも神様は支えてくれて、生きていってもいいんだ、と思えたのです。キリスト教の神は、わるいことをしたから断罪するというものではなくて、そのようにわるいことをしてしまった人に対しても、生きる支えになってくれる存在なのです。そしてそんないたらない人間にも、よく生きなおすことを許してくれる思想がキリスト教だと、私は思ったんですね。


 そのようなことを経て、アウグスティヌスまでの「教父時代」つまりキリスト教の始めの頃において、色々な考えがあるなかで彼らがどのように生きる基本を見出していったのだろうか、なんてことを研究できたらなと思って、そのテーマにぴったり合っていたのが、先ほどのアウグスティヌスという人だったんですね。それでどのように研究するのかというと、歴史のなかでまさに「生きていたアウグスティヌス」が考えていたことを学びたいと思って、今も研究を続けています。



 ―現在の研究の内容を教えてください。



 岩波新書から『アウグスティヌス:「心」の哲学者』という本を出したのですが、ここで『「心」の哲学者』と題したのにも意図があります。


 「心」というのはheartですから心臓、つまり身体の一部なわけです。そこに定位して人間を考え、そこに定位して人間を超えた神を求めていく、というのが、私にとってのアウグスティヌスです。単なる神学者、認識論の先駆者、歴史哲学者ではないんですね。


 人間のありかたを身体に基づいて考えたときに、身体に行きわたっている精神的なはたらきの中心に位置する「場所」としての「心」。私の身体というのは、私がまさにそこに生きている/置かれている場所なのです。アウグスティヌスの哲学は、「心」に定位して真理を訪ねていく営みなんですね。それで、真理を愛し求めていくときに、頭だけで考えたり、自分の外のものにとらわれたりしていては求められないので、自分の内に立ち戻って、それを超えていく。これがアウグスティヌスの「『心』の哲学」であり、それを生きたのがアウグスティヌスなのです。


 このような「身体」に着目した哲学というのは、私の哲学の特徴といえるかもしれませんね。そのような哲学を説得的に発信できているかは分かりませんけれども。でも、そういうことを学生諸君と一緒に考えることの機縁になればな、と思って講義は一生懸命やっています。



―研究領域の魅力は何でしょうか。



 このような古代ギリシア・ローマの研究というのは、欧米の研究者にとっても外国の研究なんですよ。だから、日本語話者の私たちでも「一緒に学ぶ」ことができる。私たちがギリシア語・ラテン語のテクストを読み、「こう読めるんじゃないか」と提案したことを、彼らも取り入れてくれたりする。


 さらには欧米の研究者が考えてもみなかったようなことを、異なる環境のなかに生きているからこそ提示できることもある。そのようにともに学ぶ共通の場所をもつことが、古代哲学においては可能なんですよ。


 また、哲学やヨーロッパのことを考えるには、古代ギリシア・ローマや中世をしっかり見据えたうえで、近代哲学や現代哲学があることを見なければなりません。そのような古代中世を教える伝統のある中大文学部はすごくいいところだと思いますね。私もそのような伝統を引き継いだ身として、古代中世の大切さや面白さは、皆に伝えられればいいなと思っています。





 ―哲学や、より広い人文学の社会における立ち位置・重要性についてはどのようにお考えでしょうか。



 まずひとつ、大学に哲学専攻があって、そこで哲学が教えられ学ばれるということの意義は大きいと思っていて、大学から哲学専攻やより広く文学部を駆逐しようとするのは本当に間違っていると思います。


 なぜかといえば、大学という場所が人間の真理を色々と深く考えていく場所であって、そのためにはみずからを歴史的・認識的に振り返る「反省」という作業が不可欠だからです。そういうことをする部門として、哲学や歴史学――広く人文学という学問は、大学という知を求める組織には不可欠で、切っても切れないものでしょう。大学をより生きたものにする役割を担うものとしての哲学や人文学です。ですから大学のなかで大学人として学生を教え、十全に働くことがよい活動になると思います。社会から目を背け、そのような機能を果たせていないとしたら社会に哲学の活動を還元していないことになりますから、そのことは問われなければなりません。


 一方、哲学が生きるのは大学のなかだけではないのもまた事実です。


 大学から離れたところでも一人一人がものを見つめてしっかり反省し、「やっぱりこうじゃないか?」「別の考えはないか?」「人々の考えは違うが、どこかに接点はないか?」「こういう考えが強い力を持っているけれど、本当にそれに従っていいのか?」などと、人間としてよりよく生きるために深く考えることは大事だと思います。その結果すぐに儲かるというようなことはないかもしれないけれど、それによって得られる「やっぱり生きてよかったな」というある種のじわじわとした幸福感といいますか……。それに哲学や文学、歴史は寄与すると思うんですね。そのような幸福があることを認めない人たちもいるかもしれませんが、否そのように哲学の幸福を知らない人たちのほうが不幸なのであって、そういう人たちに対してもへこたれないで、考える幸福を伝えていくこと。そうやって「本当によいもの」を求めることを伝えていき、分かち合っていくことは、哲学の仕事ではないでしょうか。そのことは、みずからと社会を少しはよいものにすることに、少しは皆が幸福になることに、長い目で寄与すると思います。



 ―最後に中大生にメッセージをお願いします。



 私はずっと国立の岡山大学で教えていて、中大に来たのも2年前なのですが、そのような外から来た教員からしても、中大文学部はストレートに哲学を語れる、とてもいいところだと思います。


 どの国立大学と比べても引けを取らない、人文社会学をゆっくり深められる、文学部らしい文学部ですよ。4年間すべてをひとつの学問に費やせる環境というのは貴重です。私は今年度で退任しますが、人生の教員生活の最後に与えられた場として、大変ありがたいと思っています。



 中大というと、多摩の不便な場所にあると思われてしまうかもしれません。しかしそうではない。私は「多摩は近いぞ、中大は便利だ」と常々言っているんですね。


 駅を出たらすぐキャンパス、なんて大学はそれほど多くないし、近くの多摩センター駅は都心に直結していて便利なんですね。それにもかかわらず森に面していてほっとする場所で、喧噪に煩わされないでゆっくり時間を過ごせる場所だと思います。そのような自分を取り戻せる場所を持てるのが、中大多摩キャンパスの利点ではないでしょうか。


 中大に定位して英気を養い4年間じっくり学びつつ、「今日は遊びに行くぞ」と、古書店なり劇場なりといった都心に出たら、そこで十分刺激を吸収して楽しんで、それを持ち帰る、というように、中大生であることを活かしてほしいですね。そうやって中大で4年間過ごして卒業していった教え子たちの底力みたいなものを感じるところもありましてね。どこに出てもものごとがよくわかって物怖じせずに振る舞えるのは、なんといっても中大生の素晴らしいところですよ。しっかりやっているという自信は持っていいんです。中大生は幸か不幸か、入学してから卒業するまでひとつの学問と4年間付き合うことになりますから、そのなかでその学問のテイストはしっかり身につくんじゃないでしょうか。そのうえで社会を見られるのは中大生の強みだし、そういう強みのある学生さんを送り出していくのは、教員としても楽しいことですね。

(聞き手:倉本)

 
 
 

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